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天野芳太郎先生を偲ぶ記念会

 秋田の先覚・古代アンデス文明の研究に生涯を捧げた海外日系最高の文化人とされる、故天野芳太郎先生を偲ぶ記念会が、生誕地である男鹿市脇本公民館で行われました。主催は男鹿市脇本天野芳太郎顕彰会(代表世話人・高桑繁さん)。

 天野氏が亡くなって26年。没後10年にあたる1992年に顕彰碑を建立してからは毎年、「偲ぶ記念会」を開催しており、今年は5年ぶりにペルーの天野博物館館長・天野美代子さん(故天野氏の奥様)、長男の天野万里夫さんご夫妻、博物館事務局長・坂根博さんらも出席されました。

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 男鹿東中学校ブラスバンド部が日本とペルー共和国の国歌を演奏。主催者を代表して高桑さんが、天野氏が脇本に帰郷した当時の話を交えて世界で活躍した偉人を讃え、参加した全員が献花をし、天野さんの遺徳を偲びました。(写真・脇本公民館の敷地内にある「顕彰碑」)

 顕彰碑の裏面には次の碑文が刻まれています。

 天野芳太郎は明治31年(1898)7月2日、この地、男鹿市脇本で土建業を営む吉治の長男に生まれた。
 大正5年(1916)、県立秋田工業学校機械科を卒業後、横浜市に移って実業に従事した。昭和3年(1928)、南米に移住、パナマやペルー、チリなど5ヵ国で農、漁業など一国一事業を展開し、巨万の富を築いたものの、第2次世界大戦で財産は没収、身柄は日本へ強制送還となり、一度は挫折したかにみえた。
 だが、戦後再び南米に渡り、ペルーで事業を始めた。その一方で青春時代からの夢だった古代アンデス文明の研究に打ち込み、昭和39年(1964)には私財を抛ってリマ市に天野博物館を建設した。発掘・収集した数万点の遺品は量・質ともに世界一といわれ、南米のシュリーマンと讃えられた。
 昭和57年(1982)10月14日朝、心不全のため博物館隣接の自宅で死去した。84歳。
 世界に誇る偉大な先覚の逝去10周年に当たり、ここに顕彰碑を建立して永く遺徳をしのびたい。
    平成4年(1992)10月14日
                       あきた南米交流会
                       男鹿市脇本振興会
                       秋田県立秋田工業高等学校
                       秋田県立秋田工業高等学校同窓会
                             記念碑施工   寒風石材建設株式会社

by shouichiro_sato | 2008-10-13 20:00 | 今日の出来事 | Comments(1)  

Commented by ロサンゼルスの秋田県人会より at 2010-09-25 00:30 x
はじめまして。
天野芳太郎氏について検索をしておりましたところ、
貴ブログを知りました。20年以上L.A.在住しており、
南カリフォルニアに住む秋田県人会組織の事務局を担当しております。大曲(大仙市)出身です。

11月上旬、天野博物館の事務長・阪根博氏のお話が聞けますよと、一昨日、ある講演会の席上でお会いした方からご案内がありました。阪根氏は、天野芳太郎氏のお孫さんでいらっしゃる由。男鹿出身の方や秋田県出身の方々に声をかけ、古代アンデス文明の研究に生涯を全うされた先人天野芳太郎氏の高貴なる精神を学びたいと望んでいます。ご挨拶の気持ちを込めまして、コメントを残させて頂きます。

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